旧年中のアクセスは、カウンタによりますと、約24万件ほど、一昨年とほぼ同じで、昨年からは微減となりました。ご愛顧に心より御礼申し上げます。
2006年の「今年の漢字」には「命」が選ばれたそうです。秋篠宮様にお子様がお生まれになったことが一番の理由のようですが、いじめ自殺や飲酒運転による死亡事故等、「命の重みを痛感した年」というのがその理由として挙げられたようです。改めて2006を振り返ってみますと、エレベーターの誤作動による高校生の死亡事故、プールの吸水口に幼女が吸い込まれた死亡事故等、痛ましいという言葉も空しいような、悲惨な事故が続きました。
その一方で、地方自治体の汚職が相次いで発覚し、村上ファンドの村上氏や、ライブドア社の堀江氏の公判が始まりました。
私がこれらの事件の共通のバックグラウンドとして感じたのは、この国では「責任」というものが、みんなで押し付けあった挙句、行方不明になっているのではないか、ということです。
エレベーターの事例も、プールの事例も、事故の発生までの経過も、その後の関係者の対応を見ても、正直なところ、誰一人「責任」を果たそうとした人が見えません。また、本来「最高責任者」であるはずの、先ほど挙げた首長、代表、社長の言辞などを聞いていると、一体彼らは「責任」というものを何だと思っていたのだろうか、と、考えてしまいます。
もっとも、これらの事件を報道するマスコミにしても、それを見聞きする国民にしても、大した違いは無いのかもしれません。
日本国憲法で謳われている「国民主権」ということは、この国のありようについて、最終的には「国民」が決める、ということである代わり、最終的な責任は「国民」が負う、ということでもあるはずです。しかし、そもそも我々にそのような自覚があるのかどうか。
昨年の御挨拶にも書きましたが、「価格」「効率」「スピード」を、誰よりも望んできたのは、ほかでも無い我々国民であり、「とにかく安いのがいい」「とにかく早いのがいい」「とにかく自分が損するのはいやだ」そんな「無責任」が寄せ集まり、こういった事件を育ててきたのではないでしょうか。
むかしから、「責任者出て来い!」という台詞(ギャグ)もありました。これは裏を返せば、なにごとにせよ人がすること、あるいはしないことについて、必ず「責任」が付いて回るということが、「常識」であったことを意味していたのかもしれません。
「責任者は責任を取るためにいるんだから」などという、逆に少々無責任な台詞もありましたが、それはそれで、「責任者」というものの「重さ」を感じさせました。今、「責任」とは何なのか、それをもう一度問い直すことが必要なのかもしれません。
もっともかくいう自分も、このように多数の方にこのシステムを利用していただきながら、その「責任」を十分に果たしているかといわれれば、苦しいところです。
ですが、決して現状で十分だと思っているわけではありません。己の微力ぶりを時に情けなく思うこともありますが、皆様の御協力をいただき、本年も何とかこのシステムを運営してゆきたいと思います。勝手なお願いではありますが、皆様のお力を本年も賜りたく、宜しくお願い申し上げます。
本年も何卒よろしくお願い申し上げます。
参考:
読売新聞フォトニュース(12月13日)
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